期待するから裏切られたのだと勝手に思ってしまう。
ではいったい自分以外のものに何を期待していたのだろうか。
そもそも期待する必要はあったのだろうか
期待とは依存の一種なのではないだろうか
人は思ったより、(たとえ旧来の友達であっても)
私のことを考えていないし
ことこまかに覚えてもいない
きっとそれは
他者のことを覚えていることよりもはるかに
自分の人生を一生懸命に生きる必要があるからで。
そしてもし人から裏切りという行為を受けたと感じるのであれば
きっとその人に対する理解と
その人の言動に対するこちら側の想像が十分に足りてなかった可能性があるのではないか。
相手の性格や特性を十分に理解しているのであればその行動は予想の範囲内のはずだから
裏切りという行為は発生しなくなる。単純に考えればの話だが。
そして予想の範疇を超えてきたとき、それが裏切りと呼ばれるのだろう
それならばいっそ、はじめのうちから自分以外に期待しないでおこうではないか。
という考え方が最近若者の一部でスタンダードのようである
たしかに人に「裏切られた」と感じるときは大変苦しい
それも裏切りという名の一種の拷問のような苦しみを味わわねばならない
腹を割ったつきあいをしていた人とならなおさら
しかしつきあいが深まれば深まるほど
そして長ければ長いほどきっと人間はその人に対して愛着がわいてしまって
いつしかその人の言動に
自分に何かを与えてくれる人であるという期待を載せてしまうのではないだろうか
相手の言動をこちら側が決めてしまっているという傲慢さ=期待
とも捉えられる
しかし裏切りを経験しない人生なんてきっと誰の下にもない
裏切りを味わってこそ人には寛容に
自分には厳しく接していくことができるような気がする
裏切りは一種の鍛錬であって
それを回避しながら生きていくなんて到底できないと思うし
味わった方が人間性に深みが出ると私は思う
良薬は口に苦し
のように、裏切りは良薬だったりするのかもしれない。
その良薬をどのように分解できるかはその人の能力次第であろうが。
裏切りを経験するからこそ
己の欲せざる所は人にほどこすことなかれ
ができる人間になっていくような気がするのだ
だから裏切りに過度の反応するよりは
いつかは立ち向かわなければならない試練の一つだとでも捉えておいた方が良いのかもしれない。