paingain’s blog

私の思考の記録

裏切りと向き合い方

期待するから裏切られたのだと勝手に思ってしまう。

ではいったい自分以外のものに何を期待していたのだろうか。

そもそも期待する必要はあったのだろうか

期待とは依存の一種なのではないだろうか

人は思ったより、(たとえ旧来の友達であっても)

私のことを考えていないし

ことこまかに覚えてもいない

きっとそれは

他者のことを覚えていることよりもはるかに

自分の人生を一生懸命に生きる必要があるからで。

 

そしてもし人から裏切りという行為を受けたと感じるのであれば

きっとその人に対する理解と

その人の言動に対するこちら側の想像が十分に足りてなかった可能性があるのではないか。

相手の性格や特性を十分に理解しているのであればその行動は予想の範囲内のはずだから

裏切りという行為は発生しなくなる。単純に考えればの話だが。

 

そして予想の範疇を超えてきたとき、それが裏切りと呼ばれるのだろう

 

それならばいっそ、はじめのうちから自分以外に期待しないでおこうではないか。

という考え方が最近若者の一部でスタンダードのようである

 

たしかに人に「裏切られた」と感じるときは大変苦しい

それも裏切りという名の一種の拷問のような苦しみを味わわねばならない

腹を割ったつきあいをしていた人とならなおさら

しかしつきあいが深まれば深まるほど

そして長ければ長いほどきっと人間はその人に対して愛着がわいてしまって

いつしかその人の言動に

自分に何かを与えてくれる人であるという期待を載せてしまうのではないだろうか

 

相手の言動をこちら側が決めてしまっているという傲慢さ=期待

とも捉えられる

 

しかし裏切りを経験しない人生なんてきっと誰の下にもない

裏切りを味わってこそ人には寛容に

自分には厳しく接していくことができるような気がする

裏切りは一種の鍛錬であって

それを回避しながら生きていくなんて到底できないと思うし

味わった方が人間性に深みが出ると私は思う

良薬は口に苦し

のように、裏切りは良薬だったりするのかもしれない。

その良薬をどのように分解できるかはその人の能力次第であろうが。

 

裏切りを経験するからこそ

己の欲せざる所は人にほどこすことなかれ

ができる人間になっていくような気がするのだ

 

だから裏切りに過度の反応するよりは

いつかは立ち向かわなければならない試練の一つだとでも捉えておいた方が良いのかもしれない。

 

 

予知夢の不思議

私は良く夢を見る。

それもかなり現実的な夢

または予知夢のようなものである

ありありとまざまざと現実と見間違うようなものを

よく見る

頑張っている時ほどその傾向が強いように思う。

精神状態が夢に反映されるのである

 

夢は思考と深く結びついているとは言うものの

心理・精神状態が恥ずかしいくらい夢になって反映されるので

夢を見た日は翌朝いちばんに

夢占いで検索し自分の状態を客観的に見るようにしている。

夢占いは

外れていることもあるし

大当たりの時もある。

自分の状態と照らし合わせて納得のいく結果が出るときも多い。

 

夢を見て数日が経って

「ああ、あの夢はこのことを示唆していたのかな」

と思う事も多々ある。

 

例えば、就活で苦しんでいた時のこと

まだ春ではなかったし

桜も咲いていなかった時期に

目の前ですごく大きな桜が満開で咲いている夢を見たことがあった。

すぐに夢占いで調べると

桜、特に満開の場合は

「あなたのこれまでの努力がもうすぐ実を結びます」

という意味を持つらしい。

これを見たときはさすがに鳥肌があった

「本当に、そんなことがあるのか?」と。

これがもし現実になれば

予知夢に近いようなものではないかと。

 

しかし、夢はよく当たるものだ。

その夢を見た数日後に内定をもらったので

このときばかりはさすがに

すごく驚いた。

 

思考となにか、

自分の予期の範疇にないようなものも

時には夢としてあらわれ

先立って教えてくれる時がある。

そんなことがあると自分でもとてもびっくりする

 

今日は首に関する夢を見たので調べてみると、

「精神的にストレスを抱えています。リラックスしましょう。」

といった結果が出た

 

本当にそのとおりである。

最近やらなければならないことに日々追われていてろくな休息をとっていないかもしれない。

しかし、休息を取っている場合ではないほど追い込まれているので

甘えだと思い自分を追い込んでいた矢先の夢だった

 

本当にびっくりするのは

精神状態とか体が弱っていることはこれまでも何度かあったのだけれど

最近は夢に出てくるもののバリエーションが本当に豊かになっていることだ。

これまで見たことのないものをよく夢で見る。

 

しかし調べてみると当たっているものだから本当にびっくりする

 

私の脳内はいったいどうなっているのだろうか

論理では到底導き出せないような、

この世で一番不思議で不可解なものは

「夢」

なのかもしれないと私は最近考えている。

髪の毛を切るとたいてい後悔することがわかっているのに。

いつも同じ過ちを繰り返してしまうこれは何という現象なのだろうか

ただのあほなのかもしれない

 

然し伸びてくると切りたくなってしまう

ロングの方がセットが楽なのはわかっているのに。

でも

元々ロング派ではないし大人顔でもないからロングにすると印象が重たくなってしまう

でもやはり髪の毛を切ると幼く見えてしまうのも事実である

すごくジレンマだ

だから肩くらいの長さに留めておけばよいものの

いざ切ること決めるとたくさん切ってしまう

 

もう切らない、もう切らない時った後に心に決めるくせに

冬になると寒さに怯えて髪の毛を切ってしまうのが私の癖である

 

言葉

私は時々、

「人生のあの瞬間に、適切な言葉をくれる人がいてくれたらよかったのにな」と思うときがある。

 

言葉とは本当にすごいエネルギーを持つものだと思う。

言霊という言葉があるのにもうなずける。

こんな時、この世は道理でできているのだなと実感する。

誰かを救うのは案外何気ない人の言葉だったりする。

言葉に敏感であればある人ほどその傾向は強いように思う。

 

しかしその人が求めているであろう言葉を適切な場面で差し出せるようになるには

相手の「気持ちを理解する」というスキルが必要になってくるし

表現もなるべく豊かであったほうがなお良いだろう。

そして自分の過去を振り返り、どのような経験をしてきたかという事とその経験を通して何を感じ、自分にはどのような変化があったのかということを話せるようにしておいたほうが良い。その作業を行うことによって言葉にその人にしか出せない「深み」が出る。

そんなことを考えている私だから身近な人には、ひょっとするとおこがましいかもしれないけれど自分の言葉で感じたことを伝える努力をしている。

私の言葉が、いつもお世話になっている人たちの一助になれば幸いと願いながら。

 

日本語

私は文章を書くことが苦手だ。

というより、日本語での表現があまりうまくできない。

これはブログを始めた理由の一つでもある。

 

学校教育の場では自分で文章を書くという作業をあまり経験しない

しかし文章を書かないと上達しない

 

日本語は特に助詞が難しい

だから助詞の使い方を誤ってしまう人も多い

そうすると考えや思いがうまく伝わらないという伝達ミスにつながる

大学生になるとレポートを書く機会が格段に増えるが

はじめから上手なレポートを書くことは難しい

とにかくたくさん書かないと上達はしない、

 

私は恩師に

「日本語がおかしい」

と言われ、それが大変ショックで、しかしその時初めて

私は上手に日本語を使えていないのかも知れない

日本語の使い方がおかしいのかもしれない

という事に気づくことができた

 

こうやって誰かが指摘してくれる場合はまだしも

自分で気づくことはなかなか難しい

 

美しい日本語表現ができるようになるまで

努力を重ねよう。

100点。

100点を取る気概を持っている人はそうでない人と行動に大きく差が出るだろう。

及第点を目指すのであれば相応の行動が結果を伴い

満点を目指そうとするものには相応の時間と努力が要求される

はなから100点をあきらめてしまうものに100点を取れるわけがない。思いつつも100点の壁は高い。かなり高い。何度も挫折してきたことだ。ああ、私はやはり満点には及ばない人間なのかと、100点に見合う努力をしたはずであるのに満点でなかったという事は相応の努力と思考が足りていなかったといういとも簡単な答えが導き出されるのだがこれ以上の努力をしなければならないのかという閉塞感が伴うのは事実である。

所詮人間なのでエネルギー切れや意思がとたん燃え尽きることもしばしばあるから100点を目指しての行動をとり続けることなかなか難しい。それでも私は満点が欲しい。80点、90点ではだめで圧倒的な成果を残したい。しかし道のりはまだまだ長そうである。上を目指せば目指すほど、才能ある者たちを優秀な人たちを目の当たりにする。彼ら彼女らも陰で努力を惜しまない人たちなのだろうが、中には生まれつきできてしまう人もいる。でも妬まない、そんなことをしたら負けを認めていることと同じことだ。そんなみじめな人間にはなりたくない、私はだれにも負けたくない、圧倒的な努力をもってして誰よりも上に立ちたい。立って見せたいそんなことは自己満足なこと、私が一番わかっている。でも何かで絶対に一番になりたい。これが私の生きている理由である。

まだ自分が納得のいく100点を取ったことがないにも関わらず死ぬわけにはいかない。形の良いレーダーチャートを人生懸けてつくりあげていきたい。毎日毎日努力し続ける人間でありたい。そうすることでしか才能のない私には他者を引きはなす術がないという焦燥感。誰にも追われていないのに誰かにずっとつけられているような緊張感が常に私には伴っている。これまでの人生でも数多く負けてきた。運動で負けることは多少なりとも気にならなかったが頭や勉強の面知識の面で誰かに負けると特に得意な分野だと悔しくて仕方がなかった。だから努力するという方法を身につけた。もう努力をし続けて何年になるだろうかいまだ成果は実らないそれでも私はやめられない自分の夢が実現するその時まで。

いやもしかしたら、誰かに勝とうする勉強をしているからよくないのかもしれなくて私はもう少し勉学の楽しさに夢中になったほうが良いのかもしれないと思う。

感情無駄論。-人生と感情-

多くの先立つ感情は無駄なものであることが多い。

マイナスな感情はなおさらである。そんなもの捨ててしまった方がよい。感情と向き合うことに時間を割くくらいであれば目の前のデータと結果に目を向けて向き合うべきである。二度と同じ過ちを起こさないためにも。

 

なぜ感情が無駄かというと、感情は論理的でないからだ。

とくにネガティブな感情は思考を妨げる要素としかなり得ない。ネガティブな感情を抱いたときはそれが「ネガティブな感情である」ということにいち早く気付くべきである。時間を浪費しないためにもこのことは重要だ。何より感情は多くのエネルギーを必要とする。これらはエネルギーを無駄に消費することにつながる。

 

 人間関係であれ、勉学であれネガティブな感情を抱いたと思うときはそれを凌駕するかつ自分が熱をもって行える活動を行わねばならない。それによってネガティブな感情を昇華させるのだ。寝るのも一つの手である。とにかくそのような「ネガティブな感情」に飲み込まれてしまってはいけない。それは思考を停止し生活を停滞させる。

 

それでもネガティブな感情は完全には消え去らないかもしれない。そんなときは飲み込まれない程度に脳や心の片隅に共存させておくのが良い。無理に忘れようとするよりはこちらの方が過剰に意識することなく時間と共に消滅することが多い。

 

ネガティブな感情はなるべく早く処理しておいた方が良いし処理する術を持っておいた方が良い。それが自分の身を守ることにつながるし有意義な人生を送ることにつながるから。

 

最悪な感情にのまれそれを引きずってしまうことが予想される事態にはネガティブな感情を引き起こさないための予防線が必要となってくる。予防することで安堵は生まれる。しかし予防することは同時に大変ではあるけれども。

先を見通した行動が必要なのは日常生活でも緊急事態でも変わらない。

これを習得するためには自制心を習得する必要があるが自制心のない人間が将来何かを成し遂げられるわけがないので自制心とは早めに仲良くなっておいたほうが良い。

 

どうしてこんなことを言っているのかというと、私自身がこれまで数多くの感情に飲み込まれてしまった過去を持つからだ。しかしお忘れなきよう、これは 一私見である。私にとっては感情は存在しないほうが楽なのである。動かさないほうが楽で無駄なエネルギーを消費しないで済む。私はいとも簡単に感情に指導権を渡してしまうのだから。

感情が動くときは感情を動かそうと決めたときだ。あとは機械のように心を動かさないでいれば、凪のように穏やかな人生を送ることができるだろうか。